アーデルハイド     

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歴史あるヨーロッパの街並みに、その姿はよく似合った。
白銀の髪。白暫の肌。均整の取れた体躯。そして深紅の瞳。
所在なげに路面電車を待つ様子は、どこの貴公子かといった趣である。
(・・・・・・迷った)
優雅な外見とはうらはらに、貴公子は始めての街で道に迷っていた。
だがそれで焦るとか心細いとか、そういった感情は沸いてこない。
逆に、見知らぬ街で迷子になったこの状況を楽しんでいるようでもある。
普段はこういう遊び心のある性格ではない。知らない街は、人の心を華やがせる。
「市街地に向かうのなら」
「え?」
隣の男が出し抜けに話しかけてきた。
コートを着たその男の背は高く、背幅は広く、胸板には厚みがあり、
揺ぎ無く落ち着いていて・・・・・・そして隻眼だった。
市街地へ向かうのなら、そこの路面電車に乗ればいい。
男は簡潔に要領よく説明してくれた。
「この街は始めてかね」
「そうです」
「だと思ったよ。ホテルは庁舎前だろう?」
「そのとおりです。でもなぜ?」
男はコートのポケットに手を入れたまま、貴公子殿に解説した。
標識のポーランド語ではなく、英語の説明文を読んでいたこと。
視線が前後左右の建物にさまよっていたこと。
身なりが良く、そこらの安宿に泊まりそうな雰囲気には見えなかったこと・・・・・・。
「すごい観察力ですね。探偵をなさってるんですか?」
「似たようなものだよ。ポーランドへようこそ、ミスター・・・・・・」
「ミスターはよしてください。私は・・・・・・私の名前は、アーデルハイドです」
貴公子殿は右手を男に差し出した。名乗るとき、羞恥の響きが混じっていた。
「ベヒシュタインだ」
男の手は岩のように鍛え上げられ、がっしりと頑丈そうで、
そしてかすかに地と硝煙のにおいがした。
「自分の名前が好きではないらしいね」
ベヒシュタインは言った。
にこりとも笑わないのだが、人を惹き付ける不思議な包容力のある人物らしい。
自分では気づいていないが、
アーデルハイドは普段からは考えられないほど多弁になっていた。
「私の父は、娘が欲しかったらしいんです。
私にはそのつもりで名前を用意していて、生まれたのが男の私だと知らされても、
そのままこの名前をつけてしまいました」
「名前を変えたいかね?」
「・・・・・・いえ、今はもう慣れました。
初対面の人は、よく妹と二人姉妹だと思い込んでいますよ。
その説明をするのが面倒なだけです」
「同情するよ。私の娘・・・・・・娘といっても養女だが、
彼女は名前がいささか男勝りでね。
だが本人は名前どころか、身なりに気をつかう気配もない。無愛想な子だよ」
「失礼ですが、ご家族の方は?」
昼間でも零度を下回る12月のポーランド。
ベヒシュタインの吐く息が、一瞬止まるのがわかった。
「妻と娘がいたよ。ずいぶん前に死んだ」
「それは・・・・・・」
二人はしばらく、見事に石畳で舗装された古い街並みを眺めていた。
何度も戦場に見舞われ、そのたびに蘇った不死鳥のような老いた都市。
今ではその跡形もなく、数年前からずっと、
この平和で退屈な風景が維持されてきたような気さえする。
「娘は・・・・・・亡くなった娘だが、ピアノが得意だった。
よく聴かされたものだったよ」
「どんな曲を?」
「私は音楽には詳しくなくてね。確かショパンの、随分激しい曲で・・・・・・」
「革命のエチュード、ですか」
「たぶんそれだ。おとなしい子だったが、どういうわけかその曲がお気に入りだった」
「この国の曲ですよ。ポーランドのね」
「ほう?」
「ショパンが、ロシアに占領された母国ポーランドを嘆いて作ったと言われています」
「そうだったのか・・・・・・」
二人の前に路面電車が止まった。
何人かの客が白い息を吐きながら電車から降り、
何人かの客が入れ替わって電車に乗った。
そして二人をそこに残したまま、電車は再び石畳の上を走り出し、走り去った。
「私は妻と子の氏を哀しんでいたが」
ベヒシュタインは深く長いため息をついた。
「自分の家族について、そんな事も知らなかったのだな。
娘の好きな曲のことさえ、今、君に言われて初めて気が付く始末だ」
「・・・・・・」
「死を悼む資格が、私にあったのかどうか怪しいものだ。
二人が生きていた時は、仕事仕事で年に何日も家に居なかったというのに」
「家族だからといって、家族のことを知っているとは限りませんよ」
アーデルハイドは凍てつく空を見上げた。
冬空は氷のように張りつめて、どこまでも高く蒼い。
「私は、父の事がいまだに理解できないし、好きでもありません。
妹は私を兄として慕ってくれているようですが、
心の底では軽んじているようにも思える。
私自身、血縁というしがらみから逃げることばかり考えている。
そして結局逃げることもできなくて、その場に立ちすくんでいるだけなんです」
「それは誰もが感じることだよ。若いうちはね」
「そうでしょうか」
足元に鳩が数羽降りてきた。
わずかな陽だまりの中で、何かエサらしき物をついばみ、再び飛び立って行った。
遠くで教会の鐘が鳴りはじめた。

「ところでこの国には旅行かね?」
「いえ、『船』を造っているんです。
もうすぐ完成するので、その受け取りに。
この国には父の知り合いのドックがあるんです」
「それは優雅なことだ。では、それに乗って国に帰るのかな」
「そういうことになりますね」
二人の、前に再び路面電車が滑り込んできた。
「この先、7つ目の停車場で降りれば市庁舎前だ。
そこまで乗れば、どこに行くにしても解りやすい。
では良い旅を、アーデルハイド君。会えて良かったよ」
「こちらこそ」
「それから・・・・・・私の本当の名は、ベヒシュタインではない。
仕事上の仮の名だ。この国でのね。察しの通り少々危険な仕事をしている。
気を悪くしないでくれ」
「・・・・・・いいんですか? 私にそんなことを喋っても」
「私の名はハイデルン。では本当にさようならだ」
「ええ、お元気で」
アーデルハイドは路面電車に乗り込み、空席を見つけて座った。
車窓からハイデルンを探したが、もうどこにも彼の姿は見えなかった。

※ ※ ※

タンカー建造用の巨大なドックの中には、
おそろしく巨大な風船のような物体が天井と壁に届かんばかりに空間を圧迫していた。
あちこちで立ち働いている作業員の姿が見えるが、
すでに作業は概ね終了してるらしく、
大型のクレーンや作業機械は片づけられつつある。
それは飛行船だった。全長400mを超える、史上最大の飛行船。
改めて見上げるアーデルハイドの姿を、金髪の少女が目ざとく見つけた。
「遅かったのですね、お兄様」
「ああ。少し道に迷っていた。何も変わりはなかったか?ローズ」
「道にお迷いになっていたなんて、お兄様らしくないですわ。
連絡を入れてくだされば、迎えの者を行かせましたのに」
「時には迷子も楽しいものだと分かった」
「そうですの?」
「面白い人物にも会えたしな」
「お兄様が他人に興味を持つなんて珍しいこと。どのような方なのです?」
「詳しくは知らないが軍人というところかな。ひとかどの人物だと思ったが」
「?! 軍人なんて・・・・・・汚らわしい」
ローズは地虫に触れたかのように嫌悪感を露わにした。
「そんな下賤の者とお話になるなんて!」
「・・・・・・」
「いいですかお兄様。私たち兄妹は、誇り高き家柄の者。
そのような身分賤しき職業軍人など、近付くことも許すべきではありません」
妹は父に似ている、と、アーデルハイドはいつも思っていた。
血に対するプライドが異常に高く、
自分たち以外の人間に価値を認めようとしない。
そして、それを面と向かって否定する勇気が自分にはない。
譲歩するのは常に自分であった。今回もまた。
「もういい。私が悪かった」
「分かっていただければよろしいのです」
さらに路面電車に乗って帰ったなどと口にすれば、
この気位の高すぎる妹から何を説教されるか知れたものではなかった。
だからアーデルハイドは話題を変えた。
「ところで、もう運び込んだのか? 今日ウィーンから届いたはずだろう」
「ええ、もう運び込んで、調律もさせましたわ」
ローズは瞬く間に機嫌を直し、うきうきと弾んだ口調に変わっている。
「雲の上で思い切りピアノを弾いてみたいと思っていましたの。
もうすぐそれが実現できますのね。お兄様、何かリクエストはありまして?」
「そうだな・・・・・・」
曲名はとっくに決まっていたが、迷うポーズだけは見せた。
それがアーデルハイドの習慣かもしれなかった。
「・・・・・・ショパンがいい。曲は『革命のエチュード』だ。弾けるか?」